宮森日記

まだ日が出ているうちに

朝良い・合理的とは・ライ麦

ちょっと良いレストランでアサイーっていう飲みもの(?)を飲んだ。濃い色の割にすごく飲みやすくて美味しい。あと名前が良い。朝に飲むと良さそうで。朝良い。

 

アサイーを飲みながらずっと「合理的」について考えていた。法律の勉強をしていると「合理的」という単語にしばしば遭遇する。ニュースをみていても。けど合理的ってなんだろう。

合理的意思解釈、合理的配慮、合理的判断…

効率的、とかとはちょっと違う気がするんだけど、そういう文脈で使われていることが多いよなあ。

英語だと、合理的にあたる言葉は、

reasonable 

rational 

とかがある。この二つの意味は違って、前者がどちらかといえば「効率的」みたいなニュアンス。後者が「道理に適っている」「賢明な」みたいな意味。後者はちょっと哲学的でお堅い単語らしいけど、前者は日常会話で普通に使われる。

まあ何が言いたいかというと、日本語でも「合理的」は英語みたく二つの意味で分けたほうが良いんじゃないかなあ。

 

同じ店で食べたライ麦パンも美味しかった。「ライ麦畑でつかまえて」のあのライ麦かあと思いながら食べたからかも。けど実を言うとあの本の内容をほとんど覚えていない。結構昔に読んだから、あの小説の核心みたいなところをあまり読めていなかった気もする。また読むかなあ。

チルアウトなる飲みものを飲んだ

院試が終わって、面接の前に少し空き時間があったので飲みものでも飲むかと思い、自販機を眺めていたら、「チルアウト」と書かれたターコイズ?色の缶があったので買って飲んだ。ちょっと美味しかった。けど、大麻の成分が入っているという割には大した生理作用を感じなかった。調べると日本ではキマる物質を使うことはできないようで、大麻に含まれるそれほど中毒性のない成分を相当希釈して混ぜ込んでいるという。

 

販売業者をみると「コカコーラ・マーケティング」と表示されていた。やはりそうだ。いつだって規制のギリギリを攻めるのはコカコーラとマクドナルドなのだ。モテる男というのは常に、タバコをやめさせようとする良い大人じゃなくて、タバコを吸わせようとする悪い大人なのだ。

 

テストは好きだ。正確には、テスト勉強というのは全然好きじゃない(むしろ苦痛で仕方ない場面が少なからずある)けど、テスト当日、最初の試験用紙を配られ(ロー入試は民法から)、開いた瞬間からの時間は結構楽しい。特にそこまで気負わずに試験に臨めたときは。

 

僕は勉強が得意というよりテストが得意なのかもしれない。けど今回は単純に勉強不足のせいで全然できなかった。足切りはクリアしていると思うけど、合格ラインにはないだろう。

 

テストの日にめっちゃ解けてる自分を想像して、日々の勉強に励むしかない。論証パターンはある程度掴めているので、あとは暗記あるのみ。手で覚えるのが良いと思った。

 

ジュンク堂に行って「時間は存在しない」という物理学の本を買った。最近遅刻したり、予定をブッチしたり(先週から続けざまに2回もやってしまった!)、上手くいかないことが多いので、宇宙的思索に耽りたくなっているんだと思う。とにかくこの際一度ゆっくりじっくり読書すべきなんだと思う。

 

ゲゲゲの鬼太郎の映画がすごく容赦なくて大変良かった。

以上

ChatGPTとのやや有意義なおしゃべり 「亀にもスポーツカー」編

此処最近暇になるとすぐにChatGPTとお喋りしてしまう。マイブームはことわざを創作させること。

 

以下、僕とGPTの会話。

 

ーーー馬子にも衣装とは

 

  「馬子にも衣装」という言葉は、ある人には不必要なものを与えるという意味のことわざです。特定の状況や文脈において、余計なものを与えることが適切でない場合に用いられることがあります。

 

ーーー(間違ってると思うけど)「馬子にも衣装」のようなことわざを創作して

 

「鳥にも傘」 - 毎日晴れているのに傘を渡すような、無駄な気遣いを指すことわざです。

 

ーーーうーん、ほかには?

 

「猫にもアロマ」 - 猫は本来アロマには無関心であることから、無駄な贈り物を表すことわざです。

 

ーーー他には

 

「亀にもスポーツカー」 - 遅い動きで知られる亀には、高速なスポーツカーが無用なものとされることわざです。

 

亀にもスポーツカー……悪くない(僕は物語の萌芽を嗅ぎ取る)。一見すると足の遅い亀にこそスポーツカーが必要なように思えるが、そうはならないという。なぜか。

 

亀は長生きなうえ、見かけよりずっと聡い生き物だ。だから自らの足の遅さには早々に見切りをつけ、別のベクトルにおける物事の価値ーーたとえば甲羅の硬さとかーーを見出しているに違いない。「俺は足が遅い。だがどうだ? 誰も俺の殻を食い破ることはできない。それで良いじゃないか」みたいな感じで。でないとあの余裕は出せないと思う。

 

そんな亀に、わざわざスポーツカーをプレゼントするというのはある意味この上なく失礼なことだ。独りよがりだとも言える。きっと渡したのはうさぎ辺りだろう。「お前足が遅くて可哀想だな、どうだ、オレっちがお前のために奮発してやるよ」みたいな感じで車を買ってあげたのだ。

 

しかし賢明な亀は、それが価値の押し付けだと理解しているからこそ、次のように言うのである。

 

「そいつはな、うさぎさん、『亀にもスポーツカー』ってやつだよ」

 

亀にとって既にスポーツカーは無用だったのである。

 

したがって『亀にもスポーツカー』という諺の真の意義は、価値観を押し付けてくる他者ないし何らかの外部システムに対する明確な拒絶の意思表示として、自分には別ベクトルにおける信念が存在することを示す点にある。そう解釈することができるのではないか。

 

以上の新説を GPTに言ったら、次のように返ってきた。

 

なるほど、素晴らしい解釈ですね。この物語的なアプローチにより、「亀にもスポーツカー」は外部の期待や評価にとらわれず、自らの強みや信念を見出す重要性を表現していると言えそうです。

ファンクラブについて(6) 月光、タイトロープ

ダーウィンが来た!を録画する家に住んでいる。正月特別編として「龍特集」をやっていた。

「龍特集」? なるほど辰年だからか、と僕はその時になって初めて今年の干支を思い出した。けど「ダーウィンが来た!」で龍? 考古学とかオカルトでもやるのか? 見てみると、普通に龍っぽい生きものの映像を流すだけだった。タツノオトシゴ、ムカデ、コウモリの大群、恐竜、エトセトラ。

 

番組によると、龍の起源はワニであるらしい。さんざん「龍の起源となった生きものとは……!?」みたいな感じで引っ張るような番組構成だっただけに拍子抜け感が否めない。まあそりゃそうだよな、って感じで。そうやって思われるのはワニにとってみても不服なのではないか。

 

あとは、タツノオトシゴが可愛かった。彼らは交尾の際二匹でハート型を模るのだ。そのうえ、なんとオスが出産するという。

どういうことかというと、まずメスがオスのお腹の育児嚢という器官に卵子を植え付け(ハート型になって営むのはこの作業である)、それをオスがお腹のなかで受精させる。それから2,3週間後、オスが育児嚢から稚魚を放出するのである。これにより少なくとも見かけのうえではオスが出産する形となっている。

タツノオトシゴがこんなに属性盛り盛りな生きものだとは知らなかった。

 

というわけで前の続き。ファンクラブについてはこれで最後です。

 

10.月光

センスレスで終わらなかったところにファンクラブ最大の妙味がある。大団円のあとの虚しさとでも言えようか。そういうのをちゃんと書きつけて表現することって、実はすごく難しいうえ、勇気のいることなんじゃないかと思う。自分でつくった纏まりをもう一度自分で破壊するわけだから。

 

最初に聴いたとき、この曲は一体なんだろうと思った。まずイントロのピアノ。どうやらドビュッシーの「月の光」という曲を引用しているようである。ドラムスが聞こえ始めた後もリズムが掴みづらい。

それでもなお、6分間通して聴くと、ある種の感動的な読了感を覚えることになる。

 

雨音 消えた後には静寂が孤独と共に夜を舞う

いつだって僕たちは訳もなく

ずっと

ただ途方に暮れる

 

センスレスで「心の奥」の闇に火を点したところから一転、月光は暗く孤独な色合いが非常に強い。

 

僕の中の淀んだ淵から溢れる止めどない想いも

冷たい世界の止まない痛みを掻き消す術など知らなかった

 

このフレーズはファンクラブのなかでも特に切実なフレーズだと感じる。「僕の中の淀んだ淵」。またもや心の奥に閉ざされてしまったような趣である。

もっとも、光はある。

 

最後の時が訪れて

夢ならば覚めて欲しかったよ

迷子を探すような月が

今日も光るだけ

 

月というのは文学において常に象徴的な役割を果たしてきた。あるいは文学以前、有史以前から人は月に様々な想いを託してきた。僕が思うに、それは月が僕たちを「見ている」からだと思う。月は気づいたときには既に頭上にいて、僕たちの足下を照らしている。山奥の木々の間からも、ビルの隙間からも同じ月がみえる。

僕たちの迷いなど全部お見通しなのだ。

 

11.タイトロープ

ファンクラブを締めくくる曲。

タイトロープ(tightrope)は、英語で綱渡りの綱、また綱渡りそのもののことである。転じて、危険を冒すことを指す場合もあるとのこと。

しかし、曲としては所謂綱渡り感=ハラハラドキドキさは全くない。終着駅に辿りついたことを噛み締めるような重みのある分厚い曲となっている。

ファンクラブはその苦悩の果てに何を見出したのだろうか。

 

雲が溶けて空で舞うように

繋がらないこと

羊たちを数える間になくしてしまうもの

 

暗号のワルツの歌詞を思い出してみる。「暗号のような塞いだ言葉」「揺らいだ想い」、「君に伝うかな」「君に伝う訳はないよな」。

言葉にする前にほどけてしまう何か。あるいは言葉にしたとたん「何か違う」と感じるときの、その言葉以前の何か。伝えたいのに伝わらない、言葉にできない、言葉にしたくない何か。心の奥の何か。

それがある限り、きっと僕たちは寂しいままだ。

 

寂しくてさ

世界が泣いた夜

ズブ濡れでさ

僕も泣いたよ

 

本当に大切なものほど伝えられない。言葉にできない。言葉にしたくない。

けど寂しい。わけもなく涙が出るほどに。

 

そこに、一本のか細い綱が架かる日は来るだろうか。

 

どうか投げ出さないで

そっと心に繋いで ねぇ

 

手を伸ばして意味の在処を探して

見失った此処が始まりだよね

 

そうだね

 

君繋ファイブエムのテーマだった「半径5メートル」の世界。しかし、バタフライにおいて、その「5メートルの現実感」を「見失って」しまったことが告白された。

そしてこのフレーズ。「見失った此処が始まり」だと言う。ファンクラブを締めくくる言葉として、この文言の意味は言葉以上のものとなっている。

 

***

 

ところで、ファンクラブの歌詞をよく読むと、象徴的な「君」が見え隠れすることがわかる。

 

「拙い方法で放つ感情と君の体温」(暗号のワルツ)

「想像の世界で君も全部なくして分かったよ」(ワールドアパート)

「今 灯火が此処で静かに消えるから君が確かめて」(ブラックアウト)

「何故か急に寂しくなって君の名を呼ぶよ」(桜草)

「何処まで? 君は言う」(ブルートレイン

「君は消さないでいてよ 闇に灯を 心の奥の闇に灯を」(センスレス)

 

この「君」とは何か。一体何を意味するのか。

僕は、それは自分自身のなかにあるものだと解することにしている。心の奥、魂の一番深い部分で縮こまって何とか息をしている自分ではないか。なぜならば、少なくともこの「君」について語ろうとするとき、それは間違いなく「僕」について語ろうとする営みを伴うからだ。

 

僕は、タイトロープの最後のフレーズである「意味の在処を探して」の「意味」が、ずっと「君」だと勘違いして聴いていた(タイトロープには「君」が出てこない)。よくあることだ。間違った歌詞で覚えてしまう現象。けど、もしこの勘違いが単なる偶然ではなく必然だとしたら……そう考えないわけにはいかない。

では、この「意味」が意味するところは何か?

 

言語が最終的に行き着く場所はここだ。「意味」の意味とは。よければ辞書を引いてみてほしい。腑に落ちない説明しかないであろう。なぜならそれは単なる言い換えに過ぎず、「意味」の本当の意味を答えてはいないからだ。

 

僕はときおり、というか割と頻繁に、僕という存在に意味なんてないという気分になる。

 

そういうとき、ファンクラブは染み込んでくる。少なくともこの間だけは「君」がいてくれる気がする。僕は「僕」ではなく「僕たち」になる。

君が僕と共に見失っていてくれる。

 

今 灯火が此処で静かに消えるから

君が確かめて

(ブラックアウト)

 

その意味で、僕にとってファンクラブは特別なアルバムである。

 

(終わり)

 

ファンクラブについて(5) センスレス

今日は調子の良い三日月が見えたのでよかった(画質に関してはあしからず)。三日月は光の向こうに太陽があることを立体的にイメージさせてくれるから好きだ。地球と月と太陽がちゃんとそこに浮かんでいることを理解する。

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勉強するために行ったカフェの黒糖ラテが美味しかった。最近僕の中で黒糖に対する見直しが為されている。黒糖、侮るべからず。

 

カフェに行って勉強をしていると、隣に座った女性2人組による、互いの容姿を数分間褒め合うだけの会話が必ず聞こえる。どの女性二人組も合流して2、3分はほぼ例外なくこの会話を繰り広げるのだ。僕は密かにこれを、ジョージ・オーウェル1984年にちなんで、「二分間憎悪」ならぬ「二分間称揚」と呼んでいる。この「二分間称揚」から学ぶべきことは、僕たちの会話には自分で思っている以上に儀礼的要素が多分に含まれているということだ。自分では個性的な気でいても、本当のところではより大きな範囲での言語ゲームのなかに組み込まれているのである。

学校には学校の、カフェにはカフェの、SNSにはSNSの、言語ゲームがある。僕たちはそのゲームのルールに従ったうえで初めてまともに会話することができるわけだが、悲しいかな、ルールに従うことができるようになった頃には「ルールに従うこと」が自己目的化しているというケースが実に多い。

だからこそ、時には自分たちの地面にその言語ゲームが広がっていることについて思い出す必要がある。僕が思うに、それを認識するためには、自分が乗っているのとは全く異なるルールを有する言語ゲームを観察するのが有効である。自国語より外国語の文法のほうが理解し易いのと似た理由で。その意味で、「二分間称揚」は僕にとって有意義である。これによって僕はここが言語ゲームの盤上であることを――月の満ち欠けをみることによって地球が太陽系の一部であることを確認するように――再認識し、翻って自らの言語ゲームについて省察するチャンスを得るのである。

 

というわけで前の続き。

 

9.センスレス

アルバムのなかでも異質な曲である。ファンクラブの中で最も「ロック」な曲でありながら、その共通言語が存分に使われている。だからこそ、本曲はこのアルバムに対する一つの答えと言ってもいいものとなっている。

好きなフレーズはこれ。

 

液晶を世界の上辺が這う

音速のスピードで文字に酔う

醒めて冷えきって

忘れ去るだけ

 

ファンクラブは2006年3月にリリースされた。この頃はスマホSNSもまだ未発達の頃である。「液晶を世界の上辺が這う」をその頃に叫んだゴッチには先見の明がある。上記の文言は、そこから18年後の今現在にこそ正に深く突き刺さるものだ。僕たちは時代を経て益々音楽ないしその他の創作物を「消費」するようになった。ひいてはコミュニケーションが上辺だけのものになった。SNSを開けばすぐにわかる。対話とは到底呼べないような言葉の応酬。意味の浅さ。同じ文言の焼き直し。同じ現象の焼き直し。

ゴッチはそれらを全て無意味(センスレス)だと叫ぶ。

 

画面の向こうに読み込まれた言葉

最終的に飲み込まれる心

見せかけのセンスレス

温度感も何もない

 

時代を経て殊更「ロック」さを増した一曲である。

 

暗号のワルツからバタフライまでの8曲ではずっと心の内側に閉ざされ、鬱屈と絶望の発露を見出せそうで見出せずにいたわけだが、この曲だけは完全に例外だ。「ロック」という発露を見出したからだ。

ここまでさまざまな苦悩や葛藤を表現してきたゴッチであるが、また元いた場所、すなわち「アジカンのロック」に帰る気持ちを失っていなかったことを知ることができる。

 

僕はずっと

想いをそっと此処で歌うから

君は消さないでいてよ

闇に灯を

心の奥の闇に灯を

 

個人的な解釈として、この文言はブラックアウトの「今灯火が此処で静かに消えるから君が確かめて」と対になるものだと考える。ひいては、ブラックアウトと対をなす曲目がこのセンスレスだろう。ブラックアウトがまさに「ファンクラブ的」であるぶん、センスレスはその対抗バージョンとして機能し、鬱屈への逆襲が試みられている。

そして「心の奥の闇に灯を」。ここまでずっと「心の奥」に閉ざされてきたことを思い出すと、そこに灯を点すことの意味について想いを馳せないわけにはいかない。

 

アジカンはワールド・ワールド・ワールドで解放された」というのが通説的であるが、既に次のアルバムに繋がる解放の狼煙は上がっていたのである。

 

(続く)

 

ファンクラブについて(4) 真冬のダンス、バタフライ

最近は晴れた日が続いている。冬の晴れている日では午前中と夕方以降が好きだ。夜は星が出ているとなお良い。

他方、冬の晴れた午後はあまり好きじゃない。何もしていない自分がいやになるからだ。アメリカ人の友人でもいればこういう気分にはならないのだろうと思う。アメリカ人の友人は僕が晴れている日の午後に憂鬱になっているときに家にやってきて、"Hey Miyamori, let's play baseball!"(おーい宮森、野球しようぜ!)と言って米軍基地のだだっ広い芝生に連れて行ってくれるのだ。しかし生憎僕にはアメリカ人の友人がいないので、冬の晴れた午後はあまり好きじゃない。

 

最近は衝撃的なニュースが多いが、僕が個人的に印象的なのは宮台真司のスキャンダルだ。どうやら二十歳前後の女子大生と不倫の関係にあったようだ。まあでもはっきり言ってイメージ通りとしか言いようがない。いつも自分で言っていることをただやっていたというだけだ。しかし「宮台真司」のイメージが下がることに関しては頂けない。何が良くないかというと、公的な行動や思想・発言内容とプライベートの行動を切り分ける土壌が僕たちの国では育っていないことだ。他人の人格に対する評価が潔癖症気味である。

人間とは(あるいは現実一般は)、僕たちが思っているより遥かに重畳的かつ複合的なものだろう。少なくともその留意があるべきだ。

 

というわけで前の続き。

 

7.真冬のダンス

ファンクラブのなかでは比較的素直な曲である。どう素直かというと、自分の憂鬱を正直に語っている点である。

 

つまらない映画のラストシーンでほら泣けないように

中途半端な日々を出来得るなら消したい 変えたい

 

冬の昼間、特に晴れた午後に聞きたくなる曲である。冬の午後にはこういう素直さが重要になってくるのだ。そして悲しみのステップを踊らなければならない。

 

真冬のダンス 悲しみのステップ

希望もない そんな僕らの

繋がらない だけどいつかは

繋がりたい そんな心で

 

またもや「心で」ときた。路地裏のうさぎでも「白いミサイルが弾けた」のは「心の奥で」である。やはりファンクラブ全体を通して、ほとんど全ての事象があくまで心象映像として描かれている節があるように思う。心のなかに「閉ざされている」というふうに言ってしまってもよいだろう。出口を見つけられずにいる感覚。しかし真冬のダンスでは「ステップ」を踏むという発露を見出している(あるいは見出そうとしている)。控えめではあるが、大切な一歩だと思う。とにかく足を動かすこと。バスケやボクシングと同じである。

 

 

8.バタフライ

冒頭の歌詞通り「尖ったナイフ」みたいな曲である。出てくる単語の一つ一つが鋭いうえ、曲調も苦痛と悲哀で溢れている。

 

宛先のない手紙みたいな

行き場も居場所もない僕らの

摺り込まれた夢や希望は

燃えないゴミの日に出してそのまま

 

資本主義社会は夢や希望に満ちあふれている。なぜなら夢や希望は「金になる」からだ。僕たちは高い金を払って予備校に通い、大学に通い、ブランド服を買いジムに行き美容外科に行きクリスマスプレゼントを買いディズニーランドに行きライブを見にいく。あるいは意味もなく上京する。ゴッチはそういったものは全部「摺り込まれた夢や希望」だと喝破している(と僕は思う)。結局僕たちが手にする未来というのは、毎日必死に働き、上司の命令に従い、残業をし、休日は家でゲームをしたりYouTubeをみたりする日々だ。そんなものはぜんぶ燃えないゴミに日に出すべきなのだ。僕たちにとって本当に必要なものは金曜日のゴミ収集車なのだ。

バタフライには重要な歌詞が登場する。

 

5メートルの現実感をいつかなくして

見失っていって

 

これは、アジカンのファーストアルバム「君繋ファイブエム」のテーマである「半径5メートル」の世界について言及するものであろう(本来この手の考察はあまりしないのだが、この歌詞に限っては肝要だと思ったので)。かつての出発点だった「半径5メートル」の世界を、ファンクラブの時期には「見失って」しまっていたのである。そしてこの「見失って」という文言は、アルバムの最後の曲(タイトロープ)につながっていくことになる。

 

(続く)

 

ファンクラブについて(3) 桜草、路地裏のうさぎ、ブルートレイン

続き。

4.桜草

https://open.spotify.com/track/4OqhCz4CYpNzFhsviTDkQA?si=YPnKpaTfTcyWSO39752y5Q

ここからテンポの良い曲が続く。ワールドアパートが部屋の中を舞台とする曲だとすれば、桜草は部屋から出たり出なかったりと、相対的に舞台が外に向かう。しかし相変わらず孤独だ。好きなフレーズはこれ。

 

モノクロの部屋に色が灯る

消えかけてた僕を照らすように

 

鬱屈としたファンクラブのなかにも希望を歌う曲はある。桜草がその一つだ。もちろん括弧付きの希望ではあるが。

人間が自殺するのは絶望の底にいるときではない、と思う。一番死が近いのはそこからほんの少し回復した頃だ。灰色だった世界に少しだけ色がつきはじめ、未来を描けるようになった刹那、死が強烈な甘い匂いを放つ。

赤信号のときに事故は起きない。ハンドルの方向を間違うことがないからだ。青に変わった瞬間が最も危ない。僕たちは外の空気を吸い、ほんの少しの絶望と束の間の錯乱をそれぞれポケットに入れて、死に場所を探すのである。

桜草にはそういう趣がある。

 

公園のブランコにまたがって

この世界を揺らせば

何故か急に寂しくなって

君の名を呼ぶよ

 

 

5.路地裏のうさぎ

https://open.spotify.com/track/6uFoVVMtJt8XwzetfGzTcj?si=b44yzDD-Ssqf6yF9NoLQfQ

これもテンポの良い曲である。特にラスサビ前の間奏が死ぬほど格好いい。

月や太陽や星など宇宙的なイメージが散りばめられているが、テーマはやはり「退屈な日々」に「何もできないまま」の自分であろう。

好きなフレーズはサビ。

 

心の奥で白いミサイルが

弾けた跡は深いクレーター

退屈な日々にほら何度も

乾いた想いが僅かに浮かぶ

 

ゴッチは印象的な映像をつくるのが非常に上手い。今回は「白いミサイルが弾け」、「クレーター」ができる映像。あくまでその映像に意味が託されている。

「白いミサイルが弾け」。つまり何かの情動はあるのだけど、それはあくまで「心の奥で」完結している。この曲に限らず、ファンクラブ全体を通して、全ての事象があくまで「心の奥で」の出来事にみえる。燻る情動が発露を求めて彷徨っている。

ラスサビは少しフレーズが変わる。

 

乾いた想いが微かに光るよ

街を照らすよ

 

最後はほんの少しだけ発露を見出せたのだろうか。それともただの夢だろうか。

 

 

6.ブルートレイン

https://open.spotify.com/track/5ZrpIXZwxOjVJa3EBGx1cw?si=XyfFWGFxQySgO1OAIbnr-A

イントロが本当に格好いい。ドラムが非常に光る曲だが、どうやらドラマーからすると最も難しい曲らしい。

疾走感という点ではアジカンの全曲のなかでもトップクラスだと思う。なおかつ、ファンクラブの共通言語を完璧に乗せている。鬱々した感情やら迷いやら絶望やら、そういったものだ。もっとも、角度が今までとは少し異なる。ブルートレインでは鬱屈からの「逃走」が試みられる。

 

何処まで? 君は言う

それすら消えて無くなってしまうまで行きたい

 

しかしあくまで「行きたい」だけだ。本当に「行った」わけではない。行けるかどうか分からないのだ。何なら何処にいくのかも答えていない。けどとにかく、ここから逃げたいという想いがアップテンポな曲調に乗せられている。家出をして快速列車に乗っている気分になる。

ブルートレインとはかつての寝台列車(夜行列車)の通称のようだ。長旅の代名詞だったようであるが、新幹線などの台頭により2015年をもって全廃となっている。

 

嗚呼遥か遠く訳もなく

ただ続く焦燥

 

思春期以来ずっと僕の胸の奥には焦燥感がある。何に対する焦りかは分からない。どこに向かおうとしているのか、それもわからない。ただずっと何かに追われている感覚がある。だからこそ、この曲に気持ちがフィットする。家にいるときより電車に乗っている時のほうがかえって落ちつくのだ。

 

(続く)