宮森日記

まだ日が出ているうちに

ファンクラブについて(4) 真冬のダンス、バタフライ

最近は晴れた日が続いている。冬の晴れている日では午前中と夕方以降が好きだ。夜は星が出ているとなお良い。

他方、冬の晴れた午後はあまり好きじゃない。何もしていない自分がいやになるからだ。アメリカ人の友人でもいればこういう気分にはならないのだろうと思う。アメリカ人の友人は僕が晴れている日の午後に憂鬱になっているときに家にやってきて、"Hey Miyamori, let's play baseball!"(おーい宮森、野球しようぜ!)と言って米軍基地のだだっ広い芝生に連れて行ってくれるのだ。しかし生憎僕にはアメリカ人の友人がいないので、冬の晴れた午後はあまり好きじゃない。

 

最近は衝撃的なニュースが多いが、僕が個人的に印象的なのは宮台真司のスキャンダルだ。どうやら二十歳前後の女子大生と不倫の関係にあったようだ。まあでもはっきり言ってイメージ通りとしか言いようがない。いつも自分で言っていることをただやっていたというだけだ。しかし「宮台真司」のイメージが下がることに関しては頂けない。何が良くないかというと、公的な行動や思想・発言内容とプライベートの行動を切り分ける土壌が僕たちの国では育っていないことだ。他人の人格に対する評価が潔癖症気味である。

人間とは(あるいは現実一般は)、僕たちが思っているより遥かに重畳的かつ複合的なものだろう。少なくともその留意があるべきだ。

 

というわけで前の続き。

 

7.真冬のダンス

ファンクラブのなかでは比較的素直な曲である。どう素直かというと、自分の憂鬱を正直に語っている点である。

 

つまらない映画のラストシーンでほら泣けないように

中途半端な日々を出来得るなら消したい 変えたい

 

冬の昼間、特に晴れた午後に聞きたくなる曲である。冬の午後にはこういう素直さが重要になってくるのだ。そして悲しみのステップを踊らなければならない。

 

真冬のダンス 悲しみのステップ

希望もない そんな僕らの

繋がらない だけどいつかは

繋がりたい そんな心で

 

またもや「心で」ときた。路地裏のうさぎでも「白いミサイルが弾けた」のは「心の奥で」である。やはりファンクラブ全体を通して、ほとんど全ての事象があくまで心象映像として描かれている節があるように思う。心のなかに「閉ざされている」というふうに言ってしまってもよいだろう。出口を見つけられずにいる感覚。しかし真冬のダンスでは「ステップ」を踏むという発露を見出している(あるいは見出そうとしている)。控えめではあるが、大切な一歩だと思う。とにかく足を動かすこと。バスケやボクシングと同じである。

 

 

8.バタフライ

冒頭の歌詞通り「尖ったナイフ」みたいな曲である。出てくる単語の一つ一つが鋭いうえ、曲調も苦痛と悲哀で溢れている。

 

宛先のない手紙みたいな

行き場も居場所もない僕らの

摺り込まれた夢や希望は

燃えないゴミの日に出してそのまま

 

資本主義社会は夢や希望に満ちあふれている。なぜなら夢や希望は「金になる」からだ。僕たちは高い金を払って予備校に通い、大学に通い、ブランド服を買いジムに行き美容外科に行きクリスマスプレゼントを買いディズニーランドに行きライブを見にいく。あるいは意味もなく上京する。ゴッチはそういったものは全部「摺り込まれた夢や希望」だと喝破している(と僕は思う)。結局僕たちが手にする未来というのは、毎日必死に働き、上司の命令に従い、残業をし、休日は家でゲームをしたりYouTubeをみたりする日々だ。そんなものはぜんぶ燃えないゴミに日に出すべきなのだ。僕たちにとって本当に必要なものは金曜日のゴミ収集車なのだ。

バタフライには重要な歌詞が登場する。

 

5メートルの現実感をいつかなくして

見失っていって

 

これは、アジカンのファーストアルバム「君繋ファイブエム」のテーマである「半径5メートル」の世界について言及するものであろう(本来この手の考察はあまりしないのだが、この歌詞に限っては肝要だと思ったので)。かつての出発点だった「半径5メートル」の世界を、ファンクラブの時期には「見失って」しまっていたのである。そしてこの「見失って」という文言は、アルバムの最後の曲(タイトロープ)につながっていくことになる。

 

(続く)