宮森日記

まだ日が出ているうちに

リライト(ASIAN KUNG-FU GENERATION)

リライトが「rewrite」(書き直す)であることに今さらながら気づいた。やっぱいいな、リライト。

 

ゴッチも曲をつくるときは消して、書き直して、消してを繰り返すんだろうな。なのに、どんなにがんばっても、それが超くだらない幻想でしかないように思うんだよなあ。何者にもなれない気がするんだよなあ。

 

腐った心を

薄汚い嘘を消して

リライトして

 

全部ぶっこわしたい。そんなときにむしろリライトを聴くと良いかもしれない。

 

ことばなど所詮ぜんぶ嘘、フィクションなんだもの。

君の街まで(asian kung-fu generation)

asian kung-fu generation の曲はどれも良いけど、

一番楽しい曲はどれかって言えば、

やっぱり「君の街まで」だよな。

 

切なさだけで 悲しみだけで 君の街まで 飛べればいいのにな

 

ある朝、kito-kitoがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床で一房の巨大なぶどうに変っているのを発見した。

 

kito-kitoにはこの日、どうしても行かねばならぬ場所があった。どうしたものかと考えるkito-kitoは、ここらの一帯は坂道が多いことを思い出し、妙案を閃いた。身体を一粒ずつ切り離し、一塊のぶどう群となって転がってゆくという作戦である。

 

kito-kitoは早速ぶどうを一粒切り離す。刹那、激痛と共に、「喜び」の感情を失う。切り離したぶどうに「喜び」が入っていたのである。だがkito-kitoはもはや「喜び」を忘れているので、自分が何を失ったのかすら知らない。二粒目を切り落とす。「怒り」が失われる。三粒目、「好奇心」が失われる。四粒目、「誇り」が失われる。

 

五粒目、「苦痛」が失われる。このとき、切り離す痛みが消え去る。kito-kitoはこれは楽だと思い、立て続けに全てのぶどうを切り落としてゆく。

 

全てのぶどうを切り離した後、kito-kitoは一塊のぶどう群として坂道を転がってゆく。青紫色の甘い球体として、転がってゆく。

 

BGMは勿論「君の街まで」

 

街の人々が驚いて振り返る。子どもがアイスをこぼす。

 

kito-kitoの群れは坂道を転がってゆく。

 

しかし悲しいかな、道中の至る所に障害が存在した。kito-kitoは次々と潰れていった。

 

「憧れ」が馬車に撥ねられ、「後悔」が岩壁に激突し、「愛しさ」が八百屋に突っ込み、破裂した。

 

水路は紫色に染まった。

 

君の街まで辿り着けたのは「切なさ」と「悲しみ」だけだった。

 

今日はデートの日だったのだ。

アルカリイオン水

水って大事だよなと思います。

最近はお水を買う係りです。僕はアルカリイオン水を買います(アルカリイオン水ってなんだ?)。

 

最近は曇りの天気予報で晴れる日が多いです。それ自体は素敵なのですが、ダムの水位が目減りしているという話を聞くので、心配です。水がなければ困ります。かなり、めちゃくちゃ困ります。

 

ねじまき鳥クロニクルでは「水」がテーマのひとつとなっています。「井戸」もです。私たちの地下世界について、私たちはねじまき鳥クロニクルを読むことによって理解するのです。

 

目薬を差すときのドキドキワクワクする感じが好きです。

 

あまりにも不幸だった時間が長すぎて、いざ幸福が周囲を満たしたときに、その幸福にうまく身を馴染ませられず、結局、前よりも不幸になってしまう人を僕は愛しています。不幸なほうが幸福なのですね。

 

僕は割とぬくぬく育ったので、普通に幸福に慣れてしまうタイプです。しかしときには幸福を有り難く思う必要があるのです。

 

そのために悲劇を摂取します。古代ギリシャの劇作家ソフォクレスのように。

 

水が大事なのです。

 

まばらな駐車場、雨の夜、照明

大学の駐車場が期末期間の途中くらいから空(す)いてくる。このくらいの時期の駐車場はどこか寂しい気配を宿していて好きだなあ。

そもそも駐車されていない駐車場が僕は結構好きだ。そこにあるはずのものがない感じーー「不在感」とでも言えようかーーが良い。本の無い本屋さんも、眼鏡のない眼鏡屋さんも――理論上は在り得るとしても――見かけることはまずない。けど、車のない駐車場だけは当たり前に身のまわりに存在する。

特に雨の夜、駐車場の地面が濡れて、照明を反射する感じとかは最高だよなあ。なんかわかんないけどめっちゃ好きだなあ、あの感じ。

 

だから僕は小雨が止まない或る夜、少し遠出をして隣町の高架橋の脇にある広い駐車場に行った。もちろん音楽はASIAN KUNG-FU GENERATIONのファンクラブ。

駐車場には巨大な影が横たわっていた。それはシロナガスクジラだった。恐る恐る近寄ると、彼にはまだ息があった。僕は彼を救うために、最も大事な記憶を与えた。子どもの頃の幸せな記憶だ。その記憶を失いたくはなかったが、他に仕様がなかった。

彼は僕の記憶をゆっくりとその大きな喉で飲み込むと、ぶおおという重くて低い鳴き声をあげ、身を震わせて濡れた地面に沈んでいった。黒い影が駐車場を悠々と泳いでいる。重低音が雨空に響く。

彼は地中で助走をつけると、一気に地面から飛び出しーー大量の水飛沫が飛び散って僕の全身にかかるーーそのまま天まで泳いで行った。彼には帰るべき場所があるようだった。僕は彼が雨夜の帷に消えて見えなくなるまで見上げていた。

まもなく、僕はクジラの記憶を失くす。いつのまに僕は駐車場のど真ん中に突っ立っていたのだろう。それもこんな雨の中。僕は車に戻ってエンジンをかける。しかし発進できない。僕の視界は滲んでいる。僕はなぜか涙を流していた。

みんなそのクジラの姿と、最も大切な記憶を忘れて生きている。

けどいつかは必ずそのクジラと再会する。

その日までは忘れたままだ。

マイクロフォン(アジカン)について

今日はマジックディスクの気分だったのでマジックディスクを聴いていた。ASIAN KUNG-FU GENERATIONのマジックディスクです。このアルバムだと、「ソラニン」も「新世紀のラブソング」も良いけど、個人的には「マイクロフォン」がかなり好きだ。サビの歌詞がすごくメタフォリカルで素敵なんだよな。

 

波打ち際を這った巻貝もいつかは

星空で光る夢を見る

三日月の日を待って這い出した僕らの

この想いよ響け どこまでも

 

ゴッチは本当に染み渡る映像をつくりだしてくれる。特に前段が良い。

僕は、この「巻貝」と題目「マイクロフォン」がなぜか繋がっているように感じる。巻貝とマイクロフォン。一見何の関係もないふたつのオブジェクト。なんでこの2つが繋がっているのだろうか。

むむむ。

むむむむむむ。

わからん。

お腹が空いたので空を飛んでカスタード・シュークリームを買ってきます。ジェットストリームも。おやすみなさい。

小説家について

小説家って雰囲気がエロいよなぁ。

特に昔の純文学の人たち。

太宰治三島由紀夫あたりはもうフェロモンがすごいもんな。

えっちです。

 

バスケットボールって競技自体は結構好きなんだけど、やってる層がちょっとなあ。やっぱ彼らと話しているとどうしても中学の気分に戻っちゃうなあ。

 

人の尊敬できる点って実はあまりバリエーションがない。「誰にでも尊敬できる点のひとつやふたつはある!」なんて言う時に想起する長所なんてたかが知れている。

僕が思うに、媒体が普及して支配的になったせいで、ツラの良い芸能人とかスポーツ選手とか資産家とかがスタンダードになってしまい、「尊敬されること」自体の価値が上がりすぎているのだ。それは反射的に「尊敬されないこと」の無価値さを増幅する。

じゃあ尊敬できる点の一つもない人間は死ぬべきなのか? 答えは否である、と言いたいところだが、その答えを根拠づける真理は残念ながら宇宙上のどこにも存在しない。ニーチェの言った通り「神は死んだ」のだから。

だからこそ、みんなでそう考えることにしなければいけないのだ。尊敬できる点の一つもない人間は死ぬべきなのか、と問われたとき、答えは「否」である、と力強く言う用意がなければならないのだ。そこに文字通り僕たちの生き死にが懸かっているのだから。

いい加減大谷翔平の価値じゃなくて、イーロンマスクの価値でもなくて、自分の価値を認めるべきなんじゃないか?

野菜ジュースを飲む理由

最近の野菜ジュースは全部おいしい。

僕が好きなのはKAGOME 野菜生活。これが美味いのですね。

野菜ジュースを飲む理由は、ぐびぐびと飲むにつれ、体が栄養の到来を喜ぶのがわかるからだ。僕くらいになるとそれがわかるし、それが快感になる。僕が宗教団体の教祖になったら、生き血の代わりに野菜ジュースを飲ませる。そしたらみんな健康になるし、KAGOMEの案件とかも貰えてガッポガッポなのではないか?

 

かくして僕は次のようなことを思いつく。すなわち、企業にずっぷりの宗教団体をつくることだ。そしたら現代日本に馴染むし、企業がパトロンについてくれれば資金に困ることはない。あとは簡単。信者たちに商品を売りつけてゆくだけだ。

 

でも、考えてみたら、みんな多かれ少なかれそういうことしてんだよなあ。別に宗教法人を名乗るまでもないのかもなあ。

 

いずれにせよ、依然として僕はKAGOME野菜生活信者なのである。