宮森日記

与次郎のたわごと

司法試験が終わって早一週間。

本当は今頃「やれやれ、来年は修習か」などといって余裕ぶっこいている予定だったのであるが、そんなことは言ってられなくなった。振り返ってみれば自分の答案は穴だらけである。とりわけ自信のあった民事系科目が散々で、後悔が多い。

「所詮お遊びだったな、司法試験。」などといってコーヒーをくゆらせる憧れの生活は「春の夜の夢のごとし」となってしまった。

正直言ってもう二度とあんな試験は受けたくないのである。あまりにも面倒くさい。試験に向けて緊張を保たなければならないのも苦痛であるが、試験自体が余りにも長いのも問題である。とくに待ち時間が長すぎて普通に耐えがたい。ああ、嫌だ。という気持ちが大きいために、頼むから合格していてくれという願望が膨らむし、気が気でないのである。頼む、受かっていてくれ。

しかるに、そのような願望と、実際来年2回目を受けるとなったときに備えて勉強を継続すべき必要とは分けて考えなければならない。それに、今年の試験の合否に対し今から何か与因することは不可能である。したがってこれの合否を憂慮することは100%時間と心身の無駄遣いである。今やるべきことは2つしかない。

  1.  再現答案を作成し、今年の試験の反省点を洗う。
  2.  万が一不合格となった場合に備え、司法試験用の勉強を怠らない。

 

1のうち、主たる反省点をここに遺しておこう。

  • とくに民事系において、条文の探索を怠った。条文を探せば簡単にわかる点をいくつも落とした。初心に帰り、条文の探索をすべきであった。
  • とくに行政法、民事訴訟法において、設問や誘導文からやや離れてしまうところがあった。設問が解答形式を指定していれば、絶対これに従う。

2についてはしかし、司法試験勉強はほどほどにしたい。むしろ法学そのものの勉強を(少なくとも今年いっぱいは)中心に行いたい。自分の知識や理解のレベルは合格水準に達しているという確信はあるから(今年の反省点はもっぱらその場での意識の問題である。)、これ以上司法試験自体に向けた勉強をするより、もっとレベルの高い世界でどういった戦いが繰り広げられているのかを知っておいたほうがよい。「司法試験に向けて」という観点からさえ、そのように言える。

したがって、今年度の戦略は以下の通り。

 ① 選択科目を含む全科目につき、基本書を通読する。

 ② 実定法学者の論文を積極的に読み込む。

 ③ 自主ゼミを積極的に催し、又は参加する。

副産物、落ちついたカフェ、基本書

司法試験――その仰々しい名とは裏腹に、われわれ受験生が覚えることは実はたった一つのくだらない技術である。すなわち、司法試験委員に好まれる文章の書き方である。彼らを喜ばせることをいかに多く書きうるか、その勝負なのである。なるほどその副産物として受験生は多少法学にも詳しくなる。しかるにわれわれの目的地は法学ではない。あくまで司法試験委員をどれだけ喜ばすかなのである。宴会芸の類いである。そこへ、当初の設立目的とは程遠く受験予備校と化したロースクールが存在する。したがってロースクールとは「司法試験委員に好まれる文章の書き方講座」である。もうこの社会では誰も法学をやっていないのである。

 

司法試験が終わったら、落ち着いた雰囲気のカフェにでも赴き、新品の法学基本書を一頁目から繰りたいと思う。まっさらなゼロ地点から、本当の法学学習を開始するのである。司法試験が終わって初めて、われわれは法学の学習を許されるのだから。

 

というわけで、7/20以降の読みたい本リスト。

  1.  国際私法。リーガルクエストがいいかな。他にヨリ一貫性のあるものがあればそれを買う。演習書も目を通したい。
  2.  民法。財産法と相続法。改正法に対応しているものがよいが、いかんせん怪しい叙述も多いから、慎重に選ぶ。
  3.  知財、労働。有斐閣ストゥディア等薄い入門書で概要を把握しよう。
  4.  民事執行・保全法。リークエが無難か。
  5.  信託法。入門書で概観を把握。道垣内先生のがいいかな。
  6.  江頭会社法。
  7.  商法総則、商行為。授業は聞き流したが、全く記憶にない。金融商品関連の本も読みたい。
  8.  樋口憲法。
  9.  塩野行政法。とりわけ組織法。
  10.  刑事訴訟法。特に公判手続を把握したい。模擬裁判と並行して。

まずはジュンク堂に行っていろいろ探したい。いろいろ読みたい種類はあるが、今回は「基本書縛り」でいってみよう。ついでに最新の六法も買っておこう。

パッチギ!

パッチギ! 面白かった。

アコギでイムジン河を弾きたくなった。試験終わって気が向いたら練習するかもしれない。

なぐる蹴るの描写が多かったが、「ぽか、ぽか」って感じで全然ぐろくない。たまにはこういう映画をみてスカッとしたほうがいいかもしれない。健康のために。

潜る

木庭先生の本を読みすぎたせいで、とくに民事法の答案を作成する際、どうしても通説とは異なることを書きたくなってしまう。通説の曖昧さを批判したくなってしまう。

しかし、司法試験委員が好むのはそうした尖りを削った無味乾燥の文章であるという。文章が無味乾燥であること自体はむしろ好ましい。明晰な論理が一個ずつ積みあがってゆくのは好きである。しかし、われわれが書くことになる答案には、そのような明晰さも欠けている。なぜなら判例・通説が明晰さを欠いているからである。

だが仕方ない。それでも法曹を目指してしまったのである。一旦司法試験を通してもらうしかない。「条文読めます、判例覚えてます、利益衡量できます、あてはめできます・・・だから受からせて!」と尻尾振ってやるしかない。潜るのである。

「転売ヤー」

「転売屋」ないし「転売ヤー」が強烈な憎悪の対象となったのはいつからだろう。たぶんSNSが広く普及した2010年前後からであると思われるが、他方、転売そのものは全く新しくない。卸売業者や小売業者がやっていることはまさに転売である。しかるに、なぜ前者のみが今新しく「社会悪」とされるに至ったか。

まず、単純に「転売ヤー」の場合、この中間者が全く付加価値を与えないということがある。卸売業者であれば、生産者の調査や大量受注による実質的な信用供与、物流の調整などさまざまな役割があり、取引社会の重要な結節点を担う。小売業にも別の役割がある。他方「転売ヤー」は、希少性の高い商品を買い占め、値段が吊り上がったところでネットオークションに売りに出す、そうした活動であり、この者は何の役割も果たしていない。買い手はただただ高い買い物をさせられ、売り手は無意味な中間者に利益を掠め取られることになる。取引上の倫理として許しがたいという気持ちはここから湧いてくる。

他方、このような商売を成り立たしめるにはある現代的状況が不可欠であり、問題はむしろこちらである。まず、「転売ヤー」にはネット販売のプラットフォームが不可欠である。これがないことには彼らは活動領域を持ちえない。そしてこれが「転売ヤー」の最も大きな問題であることはいうまでもない。つまり、ネットオークション、ひいてはネット通販プラットフォーマーという幇助犯が存在するのである。この幇助犯はなかなかに手強い。なるほど彼らは現代の産業を独占しつつある。彼らが何の付加価値も与えていないとはいえない。クリックひとつで求めるすべてを送り届けてくれるのであるから。しかるに、その裏に大穴が空いているのである。たとえば問屋がするような供給元の信用調査。新種の産業にはこれがないか、きわめて脆弱であり、怪しい人々・怪しい商品が闖入してくるのを防げない。

さらに、「転売ヤー」がやりやすいことには、昨今の産業はこの情報の非対称性を主たる食い扶持とするようになった。ある特定の記号の希少性を「売る」、希少な情報やブランドを「買う」、そうした活動が全体を覆いつつある(労働者のほとんどが多かれ少なかれこの手の情報戦に従事している)。現に「転売ヤー」が出てくるのは所謂サブカル産業である場合が多い。停滞した不透明な取引過程の中間に寄生するのである。言い方を悪くすると、「転売ヤー」が出てこずとも、そのような場ではもともと供給主が予め「買い占め」ている状態であり、恣意的に蛇口を捻ることにより利益を最大化することが行われているのである。独占販売は記号について行われ、実体が伴っている必要はない。どうせ誰も中身なんて判らないし、興味もない。

だとすると「転売ヤー」を責める資格をわれわれは持たないのではないか。彼らが行っている行為を、相似形で全員が行っているのである。にもかかわらず、ついこの間からいきなり「転売ヤー」を吊るし上げる雰囲気が主にサブカル界隈で形成された、その原因は、(特定の人為つまりプロパガンダがあってもおかしくはないが、それよりも)真剣な社会問題より特定の貧しい個人を虐めたいという全体的な雰囲気のせいであろう。プラットフォーマーには勝ち目がないが、「転売ヤー」はムカつくから村八分にしろ、というような意識である。まさに『蜘蛛の糸』の名にふさわしい、われわれネット世代に特有のヒステリックな足の引っ張り合いである。

いわゆる基本権規定の私人間適用について

 「人権は対国家的権利(国家からの自由)である」ということが殊更に強調されるようになったのはおそらくかなり下った時期からであろう。これは現代日本において「したがって私人が人権を侵害することはない」などという倒錯した論理を生ぜしめた。この観念に対する有力な批判はすでに樋口陽一などに見られる。つまり「国家による自由」が先であることが、初期近代の思想を通して強調された。もっとも、この所謂「基本権規定の私人間適用」を明確な法律構成とする試みは、おそらく未だに成功していない。

 これについて木庭顕は一案を提示する。曰く、(行政訴訟を含む)民事訴訟内において、当事者が人権の侵害を正当化するため例えば法律その他の政治的決定を援用するのを禁ずる、というものである。民事訴訟においてある種の主張制限を当事者に課するものと解される。以下、これをヒントに、もっぱら自分の頭を整理する目的で、この構成を敷衍してみたい。

 

 たとえばある事業者が試用期間中の被用者に対し、被用者の政治思想を調査するため、過去の学生運動の参加歴等の申告を求めたとする(「調査行為」)。この場合、事業者は調査行為を正当化するため、たとえば私的自治の原則ないし契約自由の原則(民法521条)を援用し、これを支えるため営業の自由(憲法22条1項)を援用するであろう。つまり事業者は被用者の政治思想の如何によって契約を締結するか否か決定する自由があり、そうすると、契約を締結するか否か決めるため一定の事柄を質問する自由もある、というのである。そのうえで、事業者は被用者が過去の学生運動歴を秘匿し、申告の求めに対し虚偽を述べたことを理由に契約上の留保解約権を行使したとする。この留保解約権行使は、やはり契約内容の自由(民法521条2項)の一環として、当事者間の雇用契約がそうなっている以上当然認められる、と主張するであろう。

 これに対し被用者側は、調査行為が被用者の思想の自由を侵害し違憲であるとか、留保解約権行使が被用者の特定の思想を理由とするため違憲であるとか、反論することになろう。

 このような事案が民事訴訟に持ち込まれたとき、当事者らの主張を裁判所はどのように扱うべきか。

 まずこれらの主張が位置する次元を正確に把握しなければならない。使用者側は、契約自由の原則をいうが、これは政治的決定に由来する。つまりそのような規律とするかどうか(私的自治にゆだねるかどうか、どこまでそうするか、等々)、あらかじめ立法その他の国家法人による政治的決定が介在しており、これが彼に権原を与えている。少なくともそう見做すことができる。そうすると、国家法人の行為であるから、憲法に縛られている。つまりおよそ中核的人権を侵害する行為につき、国家由来の決定に基づく正当化はあり得ない。これをする能力を国家法人は欠く。そしてまた契約自体当事者間で通用する一個の権原である。契約上の権利行使が人権侵害に及ぶ場合、国家が許した契約自由の枠外に出るということであるから、やはり裁判所が認定しうるような権原は存しない。

 言い換えると、ある私人の行為が別の私人の中核的人権を侵害するものと認定された場合、国家はもとよりその行為を正当化する法律等を制定し得ないから、かかる私人の行為は援用先を失い、自動的に違法となる(これを「違憲」と表現するかどうかは措く)。「たしかに私は彼の中核的人権を侵害した、しかし侵害は何々法第何条によって正当化される」などといった抗弁を許さないのである。侵害の事実を否認するしかない。

 

 今回の事例でいえば、第一に、国家は或る私人に政治思想の告白を強制する権限を付与し、又は政治思想を告白する義務を課する能力を有しない。第二に、本件調査行為が被用者の政治思想の告白を求めていることは隠されてもいないが、一応、事業者側には否認の余地がないわけではない。つまり調査行為はただの私的な、政治思想とは無関係の、質問に過ぎず、相手に対する強制の要素はないというのである。第三に、しかし実際には真逆の主張を事業者は行った。つまり「申告の求めに対し被用者は真実を述べる義務があった、これに反したから留保解約権を行使した」と主張しているのである。これは自白にほかならず、この時点で、他のあらゆる事情を問うまでもなく、調査行為の違法が認定される。調査行為は留保解約権を片手に強制にわたる形で行われていたと事業者本人が述べているのである。自白したうえで「もっとも私的自治が云々」と抗弁するのである。国家法人の一機関たる裁判所もまた、この抗弁を聴く能力を有しないから、これを直ちに排斥しなければならない。そして調査行為と密接に関連する法律行為=解約権行使も当然に違法無効と判断することになろう。調査行為があった段階で差止の訴え+損害賠償の訴え(民法198条)を提起できるのが理想である。

 人権規定は以上の形で私人間の民事訴訟を規律すると解される。そして、どういった人権に抗弁を許さない性質を認めるのかという区分に際して、二重の基準論が再度説得力を増す。上記の例のように思想・良心の自由ないし個人の尊敬に侵害が及ぶときは他の全てを捨象しなければならない。他方、例えば事業者が兼業禁止約款に反した被用者を解雇したとしても、基本的に法律レベルの問題しか生じない。裁判は法令の条文解釈で決着してよい。諸々の経済的自由はすでに法律制定に際して考慮されていると想定してよく、これが裁判所目線からみて明らかに合理性を欠く場合に法令違憲が問題となるに留まる。

 以上のような規律は、民事訴訟が順次先決問題を括り出し、これにより截然と手続を区分することで形作られているのでなければ土台無理な構想である。やはりじっくり時間をかけてこれを構築するしか道はなさそうである。しかしわれわれは既にセンセーショナルな占有概念の再提示を受けた。これを軸に、民事実体法・手続法そして公法分野の議論を循環させる必要がある。

洗礼

司法試験は、以下の作業を盲目的に行なった者が合格するようである。

 

1 問題文から司法試験委員の意図を推知する。

2 条文を探し当て、関連する判例を思い出す。

3 司法試験委員に支配的なパラダイムを想定し、なるべくそれに沿った見解を書く。

 

以上は基本的に原則論を地道に積み上げていく作業であるから、落ち着いて行えば見かけほどは難しくないはずである。条文操作により導出した規範に対し、問題文の事実を当てはめてゆく、ということの繰り返しである。

ところが、わが国の最高裁判例にはしばしば条文の基礎を全く欠いた突飛なものが混じる。とりわけ民事法でその傾向が強く、法律構成を放棄する(闇鍋で利益衡量をする)ことも珍しくない。このような判例がある場合、試験の場で六法をよく読むことはしばしば有害である。したがってこの場合は彼らの頭を支配するその謎めいたパラダイムを覚えておくしかない。配点はそこに置かれているため、ここから逸れると直ちに「不良」となる。どんなに条文に忠実であっても、である。

さらにまた、原理・原則を遡りすぎてもいけない。民法の不当利得分野や会社法の機関分野などは深く考え出すとキリがない印象であるが、実際には全ての法学上の論点は遡り出すとキリがないようにできている。鋭く対抗する諸原理の総体が法であるため当然である。が、しかし司法試験においてこうした原理・原則への過度な遡りは禁物である。第一そんな時間的余裕はないし、全く配点されていない。試験委員のなかでもとびきり創造性の乏しい方々に合わせなければならない。ひたすら判例・多数説のパラダイムを追いかける儀礼である。疑ってはいけないという意味では宗教儀礼と似ている。まさに洗礼である。短答式試験になるとその性質が極大化する。想像しないことが肝要である。