「人権は対国家的権利(国家からの自由)である」ということが殊更に強調されるようになったのはおそらくかなり下った時期からであろう。これは現代日本において「したがって私人が人権を侵害することはない」などという倒錯した論理を生ぜしめた。この観念に対する有力な批判はすでに樋口陽一などに見られる。つまり「国家による自由」が先であることが、初期近代の思想を通して強調された。もっとも、この所謂「基本権規定の私人間適用」を明確な法律構成とする試みは、おそらく未だに成功していない。
これについて木庭顕は一案を提示する。曰く、(行政訴訟を含む)民事訴訟内において、当事者が人権の侵害を正当化するため例えば法律その他の政治的決定を援用するのを禁ずる、というものである。民事訴訟においてある種の主張制限を当事者に課するものと解される。以下、これをヒントに、もっぱら自分の頭を整理する目的で、この構成を敷衍してみたい。
たとえばある事業者が試用期間中の被用者に対し、被用者の政治思想を調査するため、過去の学生運動の参加歴等の申告を求めたとする(「調査行為」)。この場合、事業者は調査行為を正当化するため、たとえば私的自治の原則ないし契約自由の原則(民法521条)を援用し、これを支えるため営業の自由(憲法22条1項)を援用するであろう。つまり事業者は被用者の政治思想の如何によって契約を締結するか否か決定する自由があり、そうすると、契約を締結するか否か決めるため一定の事柄を質問する自由もある、というのである。そのうえで、事業者は被用者が過去の学生運動歴を秘匿し、申告の求めに対し虚偽を述べたことを理由に契約上の留保解約権を行使したとする。この留保解約権行使は、やはり契約内容の自由(民法521条2項)の一環として、当事者間の雇用契約がそうなっている以上当然認められる、と主張するであろう。
これに対し被用者側は、調査行為が被用者の思想の自由を侵害し違憲であるとか、留保解約権行使が被用者の特定の思想を理由とするため違憲であるとか、反論することになろう。
このような事案が民事訴訟に持ち込まれたとき、当事者らの主張を裁判所はどのように扱うべきか。
まずこれらの主張が位置する次元を正確に把握しなければならない。使用者側は、契約自由の原則をいうが、これは政治的決定に由来する。つまりそのような規律とするかどうか(私的自治にゆだねるかどうか、どこまでそうするか、等々)、あらかじめ立法その他の国家法人による政治的決定が介在しており、これが彼に権原を与えている。少なくともそう見做すことができる。そうすると、国家法人の行為であるから、憲法に縛られている。つまりおよそ中核的人権を侵害する行為につき、国家由来の決定に基づく正当化はあり得ない。これをする能力を国家法人は欠く。そしてまた契約自体当事者間で通用する一個の権原である。契約上の権利行使が人権侵害に及ぶ場合、国家が許した契約自由の枠外に出るということであるから、やはり裁判所が認定しうるような権原は存しない。
言い換えると、ある私人の行為が別の私人の中核的人権を侵害するものと認定された場合、国家はもとよりその行為を正当化する法律等を制定し得ないから、かかる私人の行為は援用先を失い、自動的に違法となる(これを「違憲」と表現するかどうかは措く)。「たしかに私は彼の中核的人権を侵害した、しかし侵害は何々法第何条によって正当化される」などといった抗弁を許さないのである。侵害の事実を否認するしかない。
今回の事例でいえば、第一に、国家は或る私人に政治思想の告白を強制する権限を付与し、又は政治思想を告白する義務を課する能力を有しない。第二に、本件調査行為が被用者の政治思想の告白を求めていることは隠されてもいないが、一応、事業者側には否認の余地がないわけではない。つまり調査行為はただの私的な、政治思想とは無関係の、質問に過ぎず、相手に対する強制の要素はないというのである。第三に、しかし実際には真逆の主張を事業者は行った。つまり「申告の求めに対し被用者は真実を述べる義務があった、これに反したから留保解約権を行使した」と主張しているのである。これは自白にほかならず、この時点で、他のあらゆる事情を問うまでもなく、調査行為の違法が認定される。調査行為は留保解約権を片手に強制にわたる形で行われていたと事業者本人が述べているのである。自白したうえで「もっとも私的自治が云々」と抗弁するのである。国家法人の一機関たる裁判所もまた、この抗弁を聴く能力を有しないから、これを直ちに排斥しなければならない。そして調査行為と密接に関連する法律行為=解約権行使も当然に違法無効と判断することになろう。調査行為があった段階で差止の訴え+損害賠償の訴え(民法198条)を提起できるのが理想である。
人権規定は以上の形で私人間の民事訴訟を規律すると解される。そして、どういった人権に抗弁を許さない性質を認めるのかという区分に際して、二重の基準論が再度説得力を増す。上記の例のように思想・良心の自由ないし個人の尊敬に侵害が及ぶときは他の全てを捨象しなければならない。他方、例えば事業者が兼業禁止約款に反した被用者を解雇したとしても、基本的に法律レベルの問題しか生じない。裁判は法令の条文解釈で決着してよい。諸々の経済的自由はすでに法律制定に際して考慮されていると想定してよく、これが裁判所目線からみて明らかに合理性を欠く場合に法令違憲が問題となるに留まる。
以上のような規律は、民事訴訟が順次先決問題を括り出し、これにより截然と手続を区分することで形作られているのでなければ土台無理な構想である。やはりじっくり時間をかけてこれを構築するしか道はなさそうである。しかしわれわれは既にセンセーショナルな占有概念の再提示を受けた。これを軸に、民事実体法・手続法そして公法分野の議論を循環させる必要がある。