今日は調子の良い三日月が見えたのでよかった(画質に関してはあしからず)。三日月は光の向こうに太陽があることを立体的にイメージさせてくれるから好きだ。地球と月と太陽がちゃんとそこに浮かんでいることを理解する。
勉強するために行ったカフェの黒糖ラテが美味しかった。最近僕の中で黒糖に対する見直しが為されている。黒糖、侮るべからず。
カフェに行って勉強をしていると、隣に座った女性2人組による、互いの容姿を数分間褒め合うだけの会話が必ず聞こえる。どの女性二人組も合流して2、3分はほぼ例外なくこの会話を繰り広げるのだ。僕は密かにこれを、ジョージ・オーウェルの1984年にちなんで、「二分間憎悪」ならぬ「二分間称揚」と呼んでいる。この「二分間称揚」から学ぶべきことは、僕たちの会話には自分で思っている以上に儀礼的要素が多分に含まれているということだ。自分では個性的な気でいても、本当のところではより大きな範囲での言語ゲームのなかに組み込まれているのである。
学校には学校の、カフェにはカフェの、SNSにはSNSの、言語ゲームがある。僕たちはそのゲームのルールに従ったうえで初めてまともに会話することができるわけだが、悲しいかな、ルールに従うことができるようになった頃には「ルールに従うこと」が自己目的化しているというケースが実に多い。
だからこそ、時には自分たちの地面にその言語ゲームが広がっていることについて思い出す必要がある。僕が思うに、それを認識するためには、自分が乗っているのとは全く異なるルールを有する言語ゲームを観察するのが有効である。自国語より外国語の文法のほうが理解し易いのと似た理由で。その意味で、「二分間称揚」は僕にとって有意義である。これによって僕はここが言語ゲームの盤上であることを――月の満ち欠けをみることによって地球が太陽系の一部であることを確認するように――再認識し、翻って自らの言語ゲームについて省察するチャンスを得るのである。
というわけで前の続き。
9.センスレス
アルバムのなかでも異質な曲である。ファンクラブの中で最も「ロック」な曲でありながら、その共通言語が存分に使われている。だからこそ、本曲はこのアルバムに対する一つの答えと言ってもいいものとなっている。
好きなフレーズはこれ。
液晶を世界の上辺が這う
音速のスピードで文字に酔う
醒めて冷えきって
忘れ去るだけ
ファンクラブは2006年3月にリリースされた。この頃はスマホもSNSもまだ未発達の頃である。「液晶を世界の上辺が這う」をその頃に叫んだゴッチには先見の明がある。上記の文言は、そこから18年後の今現在にこそ正に深く突き刺さるものだ。僕たちは時代を経て益々音楽ないしその他の創作物を「消費」するようになった。ひいてはコミュニケーションが上辺だけのものになった。SNSを開けばすぐにわかる。対話とは到底呼べないような言葉の応酬。意味の浅さ。同じ文言の焼き直し。同じ現象の焼き直し。
ゴッチはそれらを全て無意味(センスレス)だと叫ぶ。
画面の向こうに読み込まれた言葉
最終的に飲み込まれる心
見せかけのセンスレス
温度感も何もない
時代を経て殊更「ロック」さを増した一曲である。
暗号のワルツからバタフライまでの8曲ではずっと心の内側に閉ざされ、鬱屈と絶望の発露を見出せそうで見出せずにいたわけだが、この曲だけは完全に例外だ。「ロック」という発露を見出したからだ。
ここまでさまざまな苦悩や葛藤を表現してきたゴッチであるが、また元いた場所、すなわち「アジカンのロック」に帰る気持ちを失っていなかったことを知ることができる。
僕はずっと
想いをそっと此処で歌うから
君は消さないでいてよ
闇に灯を
心の奥の闇に灯を
個人的な解釈として、この文言はブラックアウトの「今灯火が此処で静かに消えるから君が確かめて」と対になるものだと考える。ひいては、ブラックアウトと対をなす曲目がこのセンスレスだろう。ブラックアウトがまさに「ファンクラブ的」であるぶん、センスレスはその対抗バージョンとして機能し、鬱屈への逆襲が試みられている。
そして「心の奥の闇に灯を」。ここまでずっと「心の奥」に閉ざされてきたことを思い出すと、そこに灯を点すことの意味について想いを馳せないわけにはいかない。
「アジカンはワールド・ワールド・ワールドで解放された」というのが通説的であるが、既に次のアルバムに繋がる解放の狼煙は上がっていたのである。
(続く)