宮森日記

まだ日が出ているうちに

ファンクラブについて(6) 月光、タイトロープ

ダーウィンが来た!を録画する家に住んでいる。正月特別編として「龍特集」をやっていた。

「龍特集」? なるほど辰年だからか、と僕はその時になって初めて今年の干支を思い出した。けど「ダーウィンが来た!」で龍? 考古学とかオカルトでもやるのか? 見てみると、普通に龍っぽい生きものの映像を流すだけだった。タツノオトシゴ、ムカデ、コウモリの大群、恐竜、エトセトラ。

 

番組によると、龍の起源はワニであるらしい。さんざん「龍の起源となった生きものとは……!?」みたいな感じで引っ張るような番組構成だっただけに拍子抜け感が否めない。まあそりゃそうだよな、って感じで。そうやって思われるのはワニにとってみても不服なのではないか。

 

あとは、タツノオトシゴが可愛かった。彼らは交尾の際二匹でハート型を模るのだ。そのうえ、なんとオスが出産するという。

どういうことかというと、まずメスがオスのお腹の育児嚢という器官に卵子を植え付け(ハート型になって営むのはこの作業である)、それをオスがお腹のなかで受精させる。それから2,3週間後、オスが育児嚢から稚魚を放出するのである。これにより少なくとも見かけのうえではオスが出産する形となっている。

タツノオトシゴがこんなに属性盛り盛りな生きものだとは知らなかった。

 

というわけで前の続き。ファンクラブについてはこれで最後です。

 

10.月光

センスレスで終わらなかったところにファンクラブ最大の妙味がある。大団円のあとの虚しさとでも言えようか。そういうのをちゃんと書きつけて表現することって、実はすごく難しいうえ、勇気のいることなんじゃないかと思う。自分でつくった纏まりをもう一度自分で破壊するわけだから。

 

最初に聴いたとき、この曲は一体なんだろうと思った。まずイントロのピアノ。どうやらドビュッシーの「月の光」という曲を引用しているようである。ドラムスが聞こえ始めた後もリズムが掴みづらい。

それでもなお、6分間通して聴くと、ある種の感動的な読了感を覚えることになる。

 

雨音 消えた後には静寂が孤独と共に夜を舞う

いつだって僕たちは訳もなく

ずっと

ただ途方に暮れる

 

センスレスで「心の奥」の闇に火を点したところから一転、月光は暗く孤独な色合いが非常に強い。

 

僕の中の淀んだ淵から溢れる止めどない想いも

冷たい世界の止まない痛みを掻き消す術など知らなかった

 

このフレーズはファンクラブのなかでも特に切実なフレーズだと感じる。「僕の中の淀んだ淵」。またもや心の奥に閉ざされてしまったような趣である。

もっとも、光はある。

 

最後の時が訪れて

夢ならば覚めて欲しかったよ

迷子を探すような月が

今日も光るだけ

 

月というのは文学において常に象徴的な役割を果たしてきた。あるいは文学以前、有史以前から人は月に様々な想いを託してきた。僕が思うに、それは月が僕たちを「見ている」からだと思う。月は気づいたときには既に頭上にいて、僕たちの足下を照らしている。山奥の木々の間からも、ビルの隙間からも同じ月がみえる。

僕たちの迷いなど全部お見通しなのだ。

 

11.タイトロープ

ファンクラブを締めくくる曲。

タイトロープ(tightrope)は、英語で綱渡りの綱、また綱渡りそのもののことである。転じて、危険を冒すことを指す場合もあるとのこと。

しかし、曲としては所謂綱渡り感=ハラハラドキドキさは全くない。終着駅に辿りついたことを噛み締めるような重みのある分厚い曲となっている。

ファンクラブはその苦悩の果てに何を見出したのだろうか。

 

雲が溶けて空で舞うように

繋がらないこと

羊たちを数える間になくしてしまうもの

 

暗号のワルツの歌詞を思い出してみる。「暗号のような塞いだ言葉」「揺らいだ想い」、「君に伝うかな」「君に伝う訳はないよな」。

言葉にする前にほどけてしまう何か。あるいは言葉にしたとたん「何か違う」と感じるときの、その言葉以前の何か。伝えたいのに伝わらない、言葉にできない、言葉にしたくない何か。心の奥の何か。

それがある限り、きっと僕たちは寂しいままだ。

 

寂しくてさ

世界が泣いた夜

ズブ濡れでさ

僕も泣いたよ

 

本当に大切なものほど伝えられない。言葉にできない。言葉にしたくない。

けど寂しい。わけもなく涙が出るほどに。

 

そこに、一本のか細い綱が架かる日は来るだろうか。

 

どうか投げ出さないで

そっと心に繋いで ねぇ

 

手を伸ばして意味の在処を探して

見失った此処が始まりだよね

 

そうだね

 

君繋ファイブエムのテーマだった「半径5メートル」の世界。しかし、バタフライにおいて、その「5メートルの現実感」を「見失って」しまったことが告白された。

そしてこのフレーズ。「見失った此処が始まり」だと言う。ファンクラブを締めくくる言葉として、この文言の意味は言葉以上のものとなっている。

 

***

 

ところで、ファンクラブの歌詞をよく読むと、象徴的な「君」が見え隠れすることがわかる。

 

「拙い方法で放つ感情と君の体温」(暗号のワルツ)

「想像の世界で君も全部なくして分かったよ」(ワールドアパート)

「今 灯火が此処で静かに消えるから君が確かめて」(ブラックアウト)

「何故か急に寂しくなって君の名を呼ぶよ」(桜草)

「何処まで? 君は言う」(ブルートレイン

「君は消さないでいてよ 闇に灯を 心の奥の闇に灯を」(センスレス)

 

この「君」とは何か。一体何を意味するのか。

僕は、それは自分自身のなかにあるものだと解することにしている。心の奥、魂の一番深い部分で縮こまって何とか息をしている自分ではないか。なぜならば、少なくともこの「君」について語ろうとするとき、それは間違いなく「僕」について語ろうとする営みを伴うからだ。

 

僕は、タイトロープの最後のフレーズである「意味の在処を探して」の「意味」が、ずっと「君」だと勘違いして聴いていた(タイトロープには「君」が出てこない)。よくあることだ。間違った歌詞で覚えてしまう現象。けど、もしこの勘違いが単なる偶然ではなく必然だとしたら……そう考えないわけにはいかない。

では、この「意味」が意味するところは何か?

 

言語が最終的に行き着く場所はここだ。「意味」の意味とは。よければ辞書を引いてみてほしい。腑に落ちない説明しかないであろう。なぜならそれは単なる言い換えに過ぎず、「意味」の本当の意味を答えてはいないからだ。

 

僕はときおり、というか割と頻繁に、僕という存在に意味なんてないという気分になる。

 

そういうとき、ファンクラブは染み込んでくる。少なくともこの間だけは「君」がいてくれる気がする。僕は「僕」ではなく「僕たち」になる。

君が僕と共に見失っていてくれる。

 

今 灯火が此処で静かに消えるから

君が確かめて

(ブラックアウト)

 

その意味で、僕にとってファンクラブは特別なアルバムである。

 

(終わり)