宮森日記

まだ日が出ているうちに

22世紀の「意識と無意識」

祖父の得意料理は雑炊とミートソース・スパゲッティだった。後者は特に絶品だった。再現するのは難しい。どこの店に行ってもあの味が出てくることはない。あのミートソース・スパゲッティは祖父とともに死んだのだ。僕が次にあれを食べることができるのは死んだ後だ。

 

最近次のような興味深い洞察を目にした。22世紀の人々は、意識という表象を自身の本質だと考える我々21世紀人をみて、我々が天動説を信じていた16世紀の人々をみたときに感じるのと同じ憐憫を持つのではないか、というものだ。成程おもしろい意見だと思ったが、間もなく反駁の念がふつふつと、素麺汁が如く沸き立ってきたので書き記す。

 

まず意識と無意識についてごく簡単に確認する。人間の情報処理機構全体を地球とすると、意識は地表部分にあたり、それ以外の全ては無意識にあたると言える。つまり質量的にはほとんどが無意識である。このような理解はフロイトユングの時代から相当の時間を経て、括弧付きとはいえ一般的なものになりつつある一方、やはり人はその表層を自らの本質として捉えて日々生きているようである。この点に異論もうどんもない。

 

しかし僕はより大きな前提となる事項を確認する必要があると思う。第一に、意識と無意識はグラデーションであること。明確な線引きなど存在しない。第二に、脳というのは基本的に肉体を動かすための機構であり、肉体の一部だということ。意識にせよ無意識にせよ、全ては進化上肉体を有意義に動かすため、すなわち生き残る蓋然性を高めるためのシステムとして形作られてきたという歴史的アウトラインを忘れてはならない。

 

ところで、昨今僕のなかでフロイト的無意識理解に修正が加えられ始めている。すなわちここからが本題である。それは意識の肥大化と言い表し得るような時代の潮流ないし技術革新の諸々である。

 

第一。昨今の情報化社会において先進国の人々は可処分時間の大半をインターネット特にSNSに費やすようになった。これらの情報媒体に触れているとき、すなわち目(と指)を集中させているとき、人の体のなかで最も激しく駆動することとなるのは大脳である。眼前の目的物を有効に処理することにリソースを費やすために、脳は、肉食動物から逃げるときは逃げることに、言語情報を処理するときは処理することに、集中せざるを得ない。

 

言語情報を司る領域は「意識」の領域と重なり合う。なぜなら意識とは認知に対する無限の「理由付け」だからである。「言い訳」と言い換えても良いかもしれない。「自覚」とも。予測符号化の理論から言えば、まず世界に対する予測があり、これと五感の認知とが一致している間は最低限の情報処理が為され(意識にのぼるのはよく知る音楽を聴いているときのような心地よさだけである)、他方、これらの間にズレが生じた場合に、意識がぐいっと持ち上がり、新規の理由付けを急ぐのである。

 

理由付けはうまくいけば予測可能性を生み出し又は増幅させ(これこそが意識という機構に任された役割である)、生き残りに役立つ一方で、人は往々にしてこの「理由付け」「言い訳」を本質と見間違える。自由意志とは何か、自我とは何か、神とは、愛とは一体……。その結果、自殺から戦争に至るある意味では不自然な問題を抱えてきもした(これに対するアンチテーゼとして、シュルレアリスムを含む特定の芸術表現が台頭したと言えよう)。

 

そして近年、この問題はまた新たな局面を迎えつつある。「理由づけ」「言い訳」が世界の全てとなってきているのだ。人々は職場で書類整理に勤しみ(言語処理つまり意識の役割)、家でyoutubeをみたりTwitterでつぶやいたりする(言語処理つまり意識の役割)。人間の可処分時間の殆ど全てがこの後追い的な言語処理に費やされている。すなわち生きる環境が人に対して、より意識的になることを要求するものになっている。そうすると、これが表層であって本質でないと誰が言えようか。言い換えると、「理由付け」「言い訳」以外の一体何を本質と言い得るのか。五感から受け取る電気信号? 脳幹が出す原始的指令? ラーメンを食べたときに出る脳内麻薬? もっと深い何か? それは一番よく使うアプリを差し置いて別のアプリこそが本質だと言うようなものではないか。

 

第二。AIの台頭である。こと会話型AIは文字通り言語処理に特化した機械装置である。人間の「理由付け」「言い訳」を集積し、パターンを解析したうえで、入力された言語に対する適切な回答を導き出す。だからこそチャットGPTは一度も海を泳いだことがないのに溺れたときの適切な対処方法を語ることができる。これはまさに大脳に任された役割そのものである。チャットGPTが人間一人ひとりの大脳よりも適切な予測を立てられるようになれば、人間は刃物や機織り機をつくったのと同じように、大脳を拡張する新たな道具を手に入れたと言うことができよう(もちろん技術革新による産業構造の変革は常に幸福と同時に不幸を生み出してきたが、その現象はAIに対する忌避感と全く別個に扱わなければならない)。

 

とにかくここで言いたいことは、技術のベクトルとしては、より加速度的に「理由付け」「言い訳」が本質になりつつあるということである。正確に言うとそこから蕎麦粉のようにふるいにかけられ抽出された「予測可能性」が本質であろうが。

 

さて、ここまでくると最早22世紀の人々が過去を振り返ったときに意識という表象を本質と捉えてしまう我々現代人に対して憐憫を覚えるとは考えにくい。むしろ真逆で、もはやその表象以外のどこにも本質性を見出し得なくなっているのではないか。意識と無意識とがグラデーションだとして、より無意識的な領域は、環境を生き抜く上で無用の長物と化しているのではないか(現にそうなりつつあるというのを散々説明してきた)。これは社会システム学の観点からも説明できるだろうが、長くなりそうな上勉強不足なので割愛する。

 

それとも、技術革新が進んだ結果、AIではない「生物としての人間本来の価値」のようなものが見直され、「意識」の役割はむしろ減退期を迎えるだろうか。結果、ただ腹を空かせて麺類を啜りたくなり夜の街へと繰り出すだけの猿に戻っているのだろうか。

 

全く予測できないと言わざるを得ない。