宮森日記

まだ日が出ているうちに

壁と卵

去年、イスラエルハマス殲滅を掲げてガザ地区に侵攻を開始したとき、僕は村上春樹の「壁と卵」のスピーチを思い出した。彼は2009年、やはりガザ侵攻を繰り返すイスラエルに対して、エルサレム賞受賞スピーチの場でこれを語った。

 

もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。

そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです。もし小説家がいかなる理由があれ、壁の側に立って作品を書いたとしたら、いったいその作家にどれほどの値打ちがあるでしょう?

 

 

僕が法曹を志すきっかけとなった木庭顕著「誰のために法は生まれた」のなかで、「占有」という概念が登場する。占有は民法(ないし刑法)を学ぶときに触れる概念であり、物に対する事実上の支配を指すが、これはローマ法を起源とする。ローマ法において占有は最重要概念であり、従って法律そのものに通底する最も基本的な原理であると木庭顕は説く(ローマ法こそが近代法の起源だからである)。

 

木庭顕にとって、占有とは「地面に強く刺された杭」である。たとえばある人が甲土地に平穏かつ公然と住んでいるとき、その人と甲土地とが固く結びついていると見て、それを一義的に保護する。これこそが法の役割である。甲土地の真の所有者を名乗る第三者が現れたとして、その第三者が法的手続きを経ずに実力(武力)でその本権(所有権)を回復しようとしたとき、仮にその第三者が本当に本権を持っていたとしても、排除する。

 

実力とは贈与を媒介とする相互依存の集合体である。(ローマ法に由来する本来的な意味での)法は、これを徹底的に断ち切るための装置である。占有は、この相互依存とは無関係の場所で、一義的に物(たとえば土地)と結びついている者に与えられる。その者にとって、占有概念は実力から自らを守る最後の砦となる。その意味で、「地面に強く刺された杭」なのである。見捨てられた最後の一人にこそ占有(≒法)は味方する。

 

ここで、たとえばXとYが甲土地を争うとして、どちらに占有があるかを判定する専門家が必要となる。これが裁判官である。占有のあるYが被告、そうでないXが原告である。原告が主張立証責任を負い、被告は反証活動をするだけでよいので、負担は不公平である。法はこの不公平を出発点とする。占有を保護するか否かが社会の質にとって決定的な分水嶺だと考えたからである。

 

長々と分かりづらいことを書いた。要するに占有とは「自分のものなんだからどう処分しようが俺の自由だ」という考え方を捨てるところから始まっている。裁判官は「両者ともに主張のあることはわかった。とりあえず、今、平穏公然とその土地を『占有』しているのは誰だ?」というところから議論をスタートさせる。そしてどちらかに占有を認めると、それを当面保護するということである。占有が認められなかったほうは、原告となって、裁判所で法的主張をすることによってのみ、土地の返還を請求しうる。実力によるのであってはならない。

 

さて、先述のガザ侵攻について考える。なるほどイスラエルガザ地区について「元は自分たちの土地だ」と繰り返し主張している(今回はハマスの殲滅を直接の名目としてはいるが)。しかしここで占有について思い出してみると、「自分たちのものなんだから」は法が最初に捨てた思想である。保護に値するのはあくまで、現時点において平穏公然とその土地に固く結びついていた人々である。なおかつ法はその占有者を実力で脅かす存在を排除すべき使命を負っている。無論占有とは国内法での議論といえばそれまでかもしれないが(いかんせん国際法をまだよく知らない)、一つの観点として、あるいは常にぐらつく「正義」などといった抽象概念に置き換わるものとして、「占有」が有効であると考える。

 

村上春樹がスピーチのなかで出した「壁と卵」のメタファーは、上述した内容と重なる点があるように思う。話者自身はこの暗喩について、卵が生身の人々(あるいはかけがえのない魂とそれを包む脆い殻)、壁がシステム(あるいは弾丸やミサイル)を意味すると説明した。非常にクールな一撃なので是非スピーチの全文(https://murakami-haruki-times.com/jerusalemprize/)を読んでほしい(幸い日本語訳がある)。

 

なにはともあれ、僕は「壁と卵」を読んで、占有を連想せずにはいられなかった。つまり、卵が占有(=人と物との平穏公然たる固い結びつき)を意味し、壁がそれを脅かす実力(=贈与を媒介とする相互依存の集合体)を意味するように見えてならない。

 

そして村上春樹はこう言う。

 

もし小説家がいかなる理由があれ、壁の側に立って作品を書いたとしたら、いったいその作家にどれほどの値打ちがあるでしょう?

 

 

この「小説家」のところは当然「法律家」に置き換えることができる。なおかつ、法律家を志す者としてはそのように読むべきであると考える。